・悪田権三が20歳の新任警察官だった当時、その指導に当たってくれた巡査部長は52歳の大ベテランだった。経験豊富なのは良いのだが、とにかく「疲れた疲れた」を常に口にしていた。県西部のいわゆる「田舎」の警察署の、しかも、元駐在所だった交番が悪田の勤務場所だったので、正直、都会に憧れを抱いていた若者にはショックだった。
・指導部長は、年齢相応にしか動かない、本当に普段からそれを口にしているとおり、人生に疲れ果てている人だったから、書類の書き方ひとつ、満足に指導してくれなかった。書き方を質問しても「そんなもん、本見て適当に書いておけ。わしゃぁ疲れたからもう休むわ」と言って休憩室に引っ込んでしまうのだ。仕方なく、言われたとおり適当に書いて提出すると、後で刑事課司法係(当時)の係長に呼び出され、こっぴどく叱られる。こんな繰り返しだった。
・悪田の指導部長は、しかし、やたらと朝が早い。例えば深夜3時に休憩に入っても5時には起きる。何をやるでもないが、起きて、ごそごそと新聞を読んでいる。悪田が「寝ないんですか」と尋ねると「寝れないんだよ」という。当時、20歳の若者には、なかなか理解出来なかったが、悪田も年を取るとだんだんとそうなって来た。
・久しぶりの休みというか、ここで休まないとそろそろ限界だというところまで引っ張ったせいで、けっこう疲れていた。そのため、とにかく体を休めることに専念した。ところが、夕方になって、上司からの電話で目が覚めた。悪田が担当するマンションで機械式駐車場地下ピットの満水警報が発報し、警備会社経由で排水点検会社が出向した。すると、本来、2台が稼働する筈の排水ポンプが2台とも動いていないとのこと。故障である。
・折しも、台風接近中で、今後、さらに集中豪雨が重なると、単純昇降式の下段部分が水没する危険がある。しかも、この日は三連休初日で、ポンプメーカーも休みであるため、交換手配がつかないとのことだった。悪田の不安が脳裏をよぎった。
・不具合発生の箇所を確認し、下段を利用している人を探索したところ、幸いなことにお一人様だけであった。ただちに事情を説明し、お車の移動をお願いした。また、現状を他の組合員さんや理事長に報告せねばならないと考え、連絡をくれた上司の居所を確認すると、既に会社を出て、現地に向かっているとのこと。悪田は、これまでの経緯を理事長に電話で報告することとし、その後、組合員さんへの周知を行うこととした。
・早速、悪田は全戸投函用の掲示を作成し、掲示用の3枚をラミネートした。以前、不動産会社を経営していた時、掲示用にラミネートを作っていた経験が役に立った。これがなければ、一旦、嵐の中を出社して掲示を作成し、そこから現地へ向かわなければならなかった。
・ほどなく自宅を出発し、現地のマンションで上司と合流した。上司は済まなそうに気遣ってくれたが、連絡をいただいて対処出来たことは、結果的に悪田にとってはかえって有難いことである。全戸投函を行う理由は、下段の一部が来客用駐車場となっているためである。嵐の中の来訪者とは考えにくいかも知れないが、万一ということもある。少なくとも、管理会社が排水ポンプの作動不良を認識していた中で、適切な対処を怠り、結果、来客者の車が水没してしまったとなれば、後々、善管注意義務を問われかねない。
・こうして、現地で全戸投函と館内への掲示を上司に依頼し、悪田は駐車場へのラミネートの掲示を行った。これで水没の危機は回避できた。中途半端な休暇となってしまったが、結果が最悪とならなかっただけでも安堵した。