・悪田権三は、今年度の町内会班長を命免した関係で、この時期、募金活動に忙しい。
・ご存知のとおり、羽のついた募金活動期間が行われるためだ。町内会・自治会班長が煩わしいという理由に、この募金活動の煩雑さを挙げる人がけっこう多い。慣例として、この募金は、例年10月1日から翌年の3月31日までやられていることを、悪田は今回、初めて知った。また、収益目標、今年度は12億円が掲げられていることや、配分計画が定められていること、毎年、使途計画に基づく配分計画により、ボランティアによって実施が呼びかけられていることもだ。
・回覧された募金を呼び掛けるリーフレットには、寄付金が配分されるまでの流れや、個人情報の取扱い、募金ボランティアへのコロナウイルスへの配慮などの注意喚起文言が書かれていて、システムの充実度が窺えた。
・一方、県共同募金会平塚市支会が作成した「(一般募金)運動実施について」と題する連絡文書によれば、活動主体である各自治会・町内会等にあてて、目標額1,900万円が掲げられている。
・そこには、募金実施方法として、広報誌と羽を渡して個別訪問して、集金することが書かれ、領収書を交付すること、2,000円以上の奇特(悪田の主観)な寄附者が免税領収書を求めてきた場合の対応等が記載されている。
・何よりも興味深いのは「募金に際してのお願い」と題するくだりに、例えば「いくらくらいかと聞かれた」とか「使い道がはっきりしないので出したくない」とか「寄附の任意でしょう」などの、いわゆる一筋縄でいかない善良な市民に対峙した時のマニュアルが書かれている。中には義務感から、嫌々、町内会班長をやらされ、たかが数百円のために延々と文句を言われ、かえってストレスが溜まってしまうこともある。
・「ボランティアでやってんのに、何故、こんなに嫌な思いをしなきゃならんのじゃ」という叫びも聞こえて来そうだ。
・そこで悪田は考えた。悪田の担当エリアのお宅に、事前にリーフレットとメモを貼った封筒を投函して、募金のご意思のある方に協力を呼び掛ける作戦だ。文面はこうだ。
・「拝啓 すっかり秋めいて参りました。例年のとおり、今年も〇い(色)羽共同募金が始まります。ご協力いただける方は、本封筒に現金を入れ(上限:300円程度)、必ずお部屋番号、お名前、金額を明記されたうえ、〇〇〇号室悪田のポストへご投函下さい。集合ポストでも玄関ポストでもけっこうです。封筒に記載された金額と実際の額を確認したうえ、領収書と〇い(前同)羽を投函させていただきます。誠に勝手ながら、締切日を〇〇とさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。敬具 悪田権三」
・この効果は意外に絶大だ。実は、春に〇(色)十字の募金を任された時に、悪田は同じ手口を使った。お隣さんからの引継ぎでは「〇〇号室に募金嫌いの方がいて、お宅を訪問すると、玄関に『募金お断り』との張り紙が貼ってあるんです。あのお宅には行かない方がいいと思います」とのことだった。悪田は「こりゃ面白い。是非、その人の神髄を見てみたい」と考えた。そもそも、募金に非協力的なのだから、その気がないのであれば無視されるだけだ。
・そこで、前回、試しに、封筒投函方式を導入してみたところ、アンチ募金主義者の同氏より、何と500円もの高額寄附をいただいた。
・やや、引継ぎの内容と異なり、町内会長に連絡し、悪田は、500円以上の高額寄附者のみに授けられるという、伝説の楕円形の「標章」を追加でお渡しした。以前に「北風と太陽」の中でもお話ししたが、人の気持ちを動かすのは、動機だということを、悪田はこの勝負で学んだ。
・「必要だから募金に協力して」とどんなに訴えても、興味のない人の心には響かない。それなら、むしろ「協力してくれる人はお願いします」とすれば、多少なりとも、善意を持っている人の心に響くのではないかと考えた。「オレは何もケチって金を出さない訳じゃないんだよ。家に来られるのが迷惑なだけだ」と考えていたのかも知れない。
・また、人は善行を称えられると、かえって控えめになるものだ。昔、悪田がなりたての警部当時、川に飛び込んだ自殺志願者を、たまたま通りがかった仕事帰りの作業員の男性が、川に飛び込んで救出してくれた。当時の署長が「身の危険を顧みず、立派な行いをしてくれたのだから、署長からの感謝状を出しなさい」と指示し、悪田がその事務を取り計らった。
・贈呈の日に、警視正の署長の前に現れたのは、普段どおりの作業服姿の男性だった。「勇気ある行動でしたね」と署長が言葉をかけると、男性は「ああ、まあ、昔から泳ぎは得意だったもので」と気の利いた言葉を語るでもなく、そう返した。ベタ金の階級章をつけた警視正も、街の治安の根幹は、このように善良な市民の勇気ある行動に支えられていることを知っている。署長は黙って頷いていた。悪田は、この場面に遭遇し、こういう素朴な正義感をもった人で世の中が構成されていることと、人を見た目で判断してはいけないということを学んだ。
・さて、その後、悪田家のドアポストからは、時折「チャリーン」という軽快な音が響いて来る。小銭入りの封筒を投函してくれた時の軽快音だ。悪田は「毎度あり」と賛意をもって謝意にかえている。これらは、すべて、皆さんからの善意で寄せられた貴重な小銭だ。
・もちろん、悪田も協力させていただくし、いただいた封筒には、善意に対する感謝の言葉を、一言、書き添えて領収書と羽を入れてお返しする。