・あるマンションの管理室で、終日、立会い業務に従事した。エレベーターの改修工事と消防用連結送水管の耐圧試験があったためだ。
・折しも管理員が代休のため、不在となった穴埋めを、物件担当のフロントマンが代役となった。立会いだけで、一日を終えてしまうのは、非常にもったいない。何せ、この週末には理事会2本と総会前理事会1本が控えているから、悪田権三は、その準備に大忙しだ。
・本音を言えば、重要な点検がある日は、管理員の休みを変えて欲しい。管理員と同様に、悪田だって代休を取りたい。休日は体を休めたいし、リフレッシュもしたい。しかし、何かあれば、対応しなければならないし、お客様からクレームが寄せられれば、まず誠意をもって対応しなければならない。故に、なかなか心も体も休めない。
・携帯電話で連絡先が分かっているお客様はまだいい、別な対応中で電話に出られずとも、折り返せば連絡がつくから、多少は安心感がある。しかし、連絡先を把握していないお客様の場合はすぐに連絡がつかないことがある。緊急性があれば、弊社で電話を受けてくれた人が気を利かせ、悪田に連絡をくれることもあるが、そうならないこともある。
・数日ぶりに出社して、連絡事項が山積していることもあって、その対処で一日が終わってしまうこともあるので、そうならないように常に連絡手段を確保するようにしている。それにしても、まあまあ、よくよく電話やメールが来るものだ。特に管理員からは、なるべく緊急性のない案件はショートメッセージでいただきたいものだが、メッセージを使えない人や苦手な人もいるので、無理にお願い出来ないのも実情だ。
・この日だけで、管理員からのメッセージや電話が3件、お客様からの要望・苦情が2件、報告事項が1件。内容を分析すると、①蒸し返しのゴミ問題1件、②共用部火災保険適用にかかる施工と2年前の大規模修繕工事に関する苦情1件、③敷地内陥没の報告1件、④駐輪場の区画変更の連絡1件、⑤管球の在庫切れ、⑥駐車場地下ピットの満水対応、エントランスドアの交換各1件(一部重複)、それと、翌朝、出社すると⑦無断駐輪の苦情1件が寄せられていた。
・どれも緊急性のある案件ではないが、中には悪田が入社以前から引きずっている問題もある。前任者は悪田にぶん投げて、エビが危険を察して逃げるような姿でいなくなってしまったので、悪田に引継がれている。今では完全に知らんぷりだ。正直、入社前の苦情を、今頃、言われてもしようがないと本音は言いたい。それでも、弊社に寄せられた苦情であることを踏まえ、担当者としての責任をまっとうすべく、出来ることには誠実に対処しようという姿勢を示している。
・さらに、この案件を掘り下げると、6年前の施工内容に不備があるという話に至る。このため、悪田は当時の担当者や、施工会社にも連絡をして現地調査をし、不備の原因を分析し、なるべく組合に費用負担が少ない形で、良い提案が出来ないかを検討したりもした。
・しかし、世の中は無慈悲なもので、施工には保証期間があり、保証期間を過ぎると、施工会社は補償してくれない。一方で、施工会社も商売なので、将来的に悪いイメージを与えたまま、組合との縁が切れないよう注意を払っている。だから「我々で出来ることは、誠心誠意やらせていただきます」などの常套句で締めくくって帰って行くが、その言葉を真に受けて、後で改善の見積りをお願いしても、出て来る見積書の金額を見ると、そこに誠意は全く感じられない。
・お客様から、6年も前の施工に関してクレームを言われると、さすがに悪田としても「改善提案のご依頼は頂いておりませんが、実はそれを言われる前に既にこちらでも当時のことを調べ、ご提案の準備をしております」と説明出来るよう、先回りしている。今回のクレームに関してもそうした。しかし、その中身を聞いたお客様は「あっそ」と言ったきり、内容を深堀りしようともしないで、次のクレームに移行する。さすがに、これでは悪田も「もう二度と忖度はしません」と言いたくなるのが人情というものだ。
・この仕事をやっていると、時として人間不信に陥りそうになる。何のためにこんな仕事をやっているのか。こんな安月給でこき使われ。身を粉にして働いても、お客や管理員からの文句ばかり、俺たちは管理員の下働きじゃねぇ。管理員には代休があるのに、フロントマンにはない。成果を挙げても誰も褒めてもくれない。死ぬまで働けって言うのか。体調崩してメンタルやられても自己責任か。などと愚痴をこぼすときりがなくなる。
・そうしたところ、居住者の小学校低学年くらいの男の子が帰ってきたので、こちらから「おかえりなさい」と声をかけた。すると男の子は「今日さぁ、学校でシャトラン(20メートルシャトルラン)をやったんだよ」と嬉しそうに話す。悪田が「お、凄いね、何回やったの」と尋ねると「えーっとね27回」と答えた。続いて悪田が「おじさんも、もうちょっと若い時は100回くらいは出来たんだよ」と自慢すると、男の子は「すごっ」と言って、はにかみながら家に帰っていった。
・約30分後、塾か習い事か、行先は分からないが、再び男の子が出かけて行くのが目に入った。今度は、男の子の方から悪田に「行ってきます」と声をかけてくれた。
・考えてみれば、人生は20メートルシャトランと一緒だ、ドレミファのリズムで20メートルを行ったり来たりするアレだ。
・最初は、ゆっくりとしたペースでスタートし、だんだんとリズムが早くなってくる。「ジャン」までの間に、2回ゴール出来なくなるとその時点でゲームオーバー。回数を重ねるごとにキツくなってくる。徐々にペースを上げて行く理由は、参加者に試練を与え、客観的数値を基準に、その能力を測定するためだ。80回を超えると本当にしんどくなる。悪田は100回以上走るのは無理だが、それ以上走れる超人レベルの体力の持ち主が大勢いる。
・シャトランは、普段の鍛錬が大きく結果を左右する。普段から運動習慣がある人は、年をとっても、それなりの結果を出せるし、怠けている人はそこそこだ。
・それは、仕事でも同じことが言える。普段から全力で取り組んでいる人は、仕事という試練に対し前向きに取組み、成果に結びつけることが出来るし、怠けてばかりいる人はそこそこの成果しか出せない。たかが体力検定だが、されど体力検定、健康で体を動かせることは、すべての源だ。
・悪田の滅入った心が、小さな男の子の「いってきます」の一言で救われた。シャトラン27回は大人のレベルでは決して立派な回数ではない。しかし、これから無限の可能性を秘めている、この少年にとっては、今は悔しい結果であったとしても、必ずや将来の糧となるだろう。
・この一瞬で、悪田の心の中に溜まったストレスは帳消しになった。「さぁ、明日は早起きして軽く近所をランニングしよう」と決意した。