・悪田権三は警察官当時、よく上司や先輩から、仕事をするうえで、その根拠を質問された。
・仕事のコツを掴むために最短なのは、人の真似をすることだ。身近な先輩や上司のやっていることを見よう見真似で倣っているとコツが早く身につく。しかも、長年かけて積み上げられたやり方には、成功体験という過去の実績があるので、余程、致命的なミスをしない限り大きく踏み外すことは少ない。手堅い安全運転であるともいえる。
・しかし、人は日々、単に教えられたことを、真似て過ごしていると、ある時点から成長が止まる。また、新たな難題がふりかかって来ると「面倒臭い」と感じるようになり、これを回避しようとする。一度、面倒なものを回避して、楽を覚えると、次からもっと楽な方法で難局を乗り越えようとする。
・「人は変化の中で生きている」というのは悪田の経験から学んだ言葉である。かつて、通信指令課という部署で、110番緊急電話の受理・指令業務の課長補佐職を与えられ、副指令官として勤務させていただいていた当時、いろいろな場面でこの言葉の神髄に触れた。
・緊急電話を最初に受理する警察官は、通報者からいろいろな情報を聞き取る役回りだ。チームプレーであることから、緊急事態であれば、指令業務をつかさどる責任者が、緊急配備を発令する。チームの責任者は、受理者に「これを聞け」「あれを聞け」と口授し、同時に指令担当者に「このパトカーを緊急で向かわせろ」「隣接の警察署の幹部にも指示を出して応援を向かわせろ」などの指令を出す。初動の段階で、そこに情報が集約されているから、受理をするのも指令をするのも一番、効率良く立ち回ることが出来る訳だ。
・ところが、認知から時間が経過し、現場に集結した警察官が初動対応を始めると、時間が経過するごとに指令室には情報が上がって来なくなる。現場の指揮官が斉一に指揮を執り、その結果が次々と現場幹部に集約されて来るので、それこそ、数時間後には、当初、110番通報で受理した情報など、現場の警察官が誰しも知っている古い情報となってしまう。人は自分が知らない情報を他人に求める際、腰を低くしがちだが、自分が知っている情報を他人から求められた時には横柄な態度となる。
・初動捜査の現場において、まさに「人は変化の中で生きている」ということを体現できる。これに似たような話は、世の中にもっともっと多くあふれている。
・さて、あるマンションにおいて、避難通路に長年にわたり、勝手にバイクを止めている区分所有者がいる。避難通路とは、その名のとおり、災害があった時に住人が避難するため通行する通路だから、本来、けしからん行為だ。ところが、何十年もの間、黙認の状態が続いていたため、いつの間にやら、バイクを止めることに既得権益と得たとすら考えている様子である。そもそも、避難通路に堂々と自分のバイクを置くことにためらいもなく、身勝手このうえなく、まるで悪びれる様子もない。
・そこに、ある区分所有者が異議を唱えた。「勝手に置くのはいいとして共用施設を専用使用しているのだから使用料を取るべきだ」そのご意見はごもっとものように感じられるが、果たしてそれで良いのか。契約方法や金銭の支払い方にはいろいろな方法がある。例えば「契約を交わす」「覚書きを取り交わす」「信用貸しする」「現金を持参してもらう」「口座振替してもらう」などなど。しかし、使用料を取るとは言っても、避難通路にバイクを置くことを管理組合で容認していいのか。私有地だから当事者が良ければ問題ないのか。このあたりに疑義があり、悪田はこの道10年選手の先輩に質問した。先輩は悪田の質問に自信を持って即答した。その回答は以下のとおり。
・本来、避難通路にバイクを止めることが許されて良い筈はない。もしも、避難する住民がバイクが倒れていて、そのせいで逃げ遅れ、命を落としたら、勝手にバイクを止めた使用者に賠償責任が生じる。まずそれを使用者に認識させるべきだ。次に管理組合として使用者から金を取るということは、名目はどうあれ、置場提供の対価として金銭を貰うことだから、そこを避難通路を駐輪場と認めたことになる。先程と同様に、今後、もしも人命にかかわる災害が発生し、管理組合が駐輪場として認めた場所でバイクが倒れ、避難する人が逃げ遅れ被災した場合は、管理組合が賠償責任を負うことになることを組合全体に認識させる必要がある。それが嫌なら、置かせるべきでないし、使用料を徴収すべきではない。
・しかし、それでは問題の解決にはならない。現にバイクを置いている人にバイクを処分しろと言えるか。また、管理組合に対しても、竣工以来、何十年もそのような災害が起こっていないのだから、いたずらに不安をあおるべきでない。そこで、折衷案として、組合としてバイク置場として提供するかわりに、バイクが転倒しないように措置を施し、なるべく倒れるリスクが少ないようにして駐輪場として使用することを認める。バイクの所有者も本来、駐輪場として使えないものを恩恵的に使わせてくれることを理解したうえで、費用負担を容認するように話をまとめるのが正しいやり方だとのことである。
・正直、悪田は、この答を聞いて、仮に自分が住むマンションの物件担当者がこのフロントマンだったら最悪だと感じた。
・世の中に、法律、条令、規則、規範、規定等が定められている理由は、それらを守らせることで、ある種の政策目的を遂げたいからだ。ルールで定められたものが、執行者の恩情でいかようにもなるのであれば、そもそも法律など何ら意味をなさないものだ。ましてや、一歩踏み違えると人命にまで影響するであろう安全安心に関するルールが「落としどころ」で左右されたのではたまったものではない。おそらく、かの名裁きで有名な時代劇役者でも、このようなジャッジはしないだろうと考えた。
・むしろ、バカバカしいほど間違った答えを10年選手が教えてくれたので、悪田はこれに感謝した。10年もの長期間、フロントをやっていてもこの程度なのだから、自分の能力が未熟であることを恥じてはいけないと、安心感すら覚えた。
・悪田は早速、某消防署に電話をし、ことの次第を説明し、果たして避難通路にバイクを止めることは出来るのか、出来ないのかを質問した。すると、消防署員は、図面を確認したうえで返答するとしつつも「消防法令以外にも建築法令上の制限もあるので、建築指導部署にて確認をお願いします」「消防法令に関連する部分は後程、図面を確認して折り返し回答します」との返答を得た。
・その足で悪田は役所の建築指導部署へ飛んだ。担当者からは、その場所が間違いなく「避難通路」であることの説明を受けた。そのうえで、避難通路は2メートル以上の幅員が確保されてなければならず、バイクを止めることがダメではないが、止めたとしても幅員が2メートル以上確保出来ているなら問題ない。確保出来ないならば、認められない。幅員2メートル以上が確保出来ない状態で駐輪場として使用することは「違法行為」なので、行政として是正措置を講じる。いっぽう「自転車やバイクのような可動物を止めてはいけないのか」との悪田の質問については、それはいわゆる「グレーゾーン」。簡単に動かせるものが止まっているからと言って、ただちに行政指導の対象となるかについては、判断に迷うところ。ただし、幅員2メートルが確保されていない状態での駐輪場使用は、明らかに違法行為だ。との見解を示した。根拠は〇〇市建築基準条例だそうだ。
・続いて消防署から回答が寄せられた。確かにその通路は避難経路となっていて、消防で把握している幅員は2メートル。駐輪場として使用することについて、マンション区分所有者の総意があれば問題ない。建築指導部署とは違い、何センチのスペースを空けなければならないという具体的基準はない。消防法第8条2の4と〇〇市火災予防条例第〇〇条に根拠が掲載されている。との回答を得た。すぐにネットで法令を検索し確認した。総意が取れない場合に、苦情が寄せられることがある。苦情が寄せられれば指導しなければならないのが消防の立ち位置だそうだ。
・悪田はこの答が聞けて安心した。これで、次の集会で自信をもって説明出来る。しかも、根拠が明白だから、余計な忖度や駆け引き、落としどころで悩む必要はない。良い勉強になったとお二人のお役人と10年選手の先輩に感謝した。自分で根拠を調べることは知識と経験の向上に繋がる。人は時間軸という変化の中で、努力によって常に自らを向上させることができる。人生というある種の対戦ゲームにおいて、経験値の向上は、武器や防具といった主要アイテム獲得とともに、攻略のための近道となる。