やることねぇなら便所掃除しろ

・「自分に出来ないことを部下に求めるな」これは悪田権三の尊敬する警察職員の言葉である。柔道の師範でもある。

・警察は良くも悪くも階級社会なので、職務上、部下は上司の指示・命令に従う義務がある。ただし、明らかに間違った指示に従ってはいけないことになっていて、その間違った指示に従うと、従った部下に責任を負わせられる理不尽かつ不可解なルールが意識付けられた階層構成となっている。

・自分に出来ないことを部下に求める幹部は多い。もの凄く多い。当たり前のように多い。なぜか。上司が不勉強だからだ。警察の階級試験の中で最難関と呼ばれている警部試験に合格すると、不思議と勉強をしなくなる幹部が増えると言われている。なぜか。実働に関する業務のほとんどは警部補以下の部下がやってくれるからだ。幹部は全体を把握してそれっぽいことを抜かりなく指示していれさえすれば、後はすべて部下がやってくれる。それが日々繰り返されることで幹部はマンネリ化し、自分は選ばれた特別な存在だと考えるようになり、常識外れな指示を出すようになったり、そもそも自分に出来ないようなことを部下に求めるようになる幹部が育つ。悪田はそれを「組織に胡坐をかいた幹部」と呼んで批判してきたが、思いあたる患部が悪田を憎み、冷たいご飯を食べさせてくれた。「ひやめし」には温かいお茶漬けと、フブ漬けが定番だ。京都のならわしでは、「ブブ漬け」が出た時は「もう帰れ」という意味だそうで、悪田は巧みに空気を読んで「肩を叩いてくれた」と判断し警察を退職した。

・悪田権三は、警察官で最後の所属となった通信指令課で勤務した当時、当直勤務日のみっか日に一度は、必ずトイレ掃除をしていた。嘘ではない。2年間、トイレ掃除を毎当直続けた。自慢ではないが、便所掃除をさせたら日本一の職人だと自負していた。それを続けた理由は、通信指令課の業務が実働でありたかった自分には合わなかったからである。課長補佐の職を与えられ、いろいろな事件に向き合ってきた悪田権三が、通信指令課の教務において、遂に実働にはなれなかった。警察官人生31年間の中で、自分自身か実働たりえなかったのは、この最後の2年間が最初で最後だった。だから、せめてもの罪滅ぼしの意味で、部下が汚したトイレを率先して清掃し、部下が息抜きの際に少しでもトイレを快適に使ってくれるよう心掛けた。制服の袖と帽子に金線を巻き、いかにも偉そうな立場にあるオッサンも、本業は便所掃除と心得ていた。

・マンション管理会社である弊社に、入社したての新人がいる。若手の新人だから、社会経験も浅く、いわゆる「ゆとり世代」である。マンション管理の世界にも、理不尽や不条理が横行しており、それは客のワガママであったり、会社の体質であったり、職務の特殊性であったりする。悪田権三は、ほぼ人生の半数以上を警察で過ごしてきた、ほぼ、警察の世界しか知らない社会人で、最初はマンション管理業界の異質さに戸惑ったが、最近、ようやく慣れた。

・おそらく、うちの新人である彼も、彼なりに戸惑っているのだと思うが、悪田は残念ながら彼の上司ではないので、温かく見守ることしか出来ないと考えている。その彼は上司から、かなりの期待をかけられている。公私ともに声を掛け、良きアドバイザーとなってくれている。実に羨ましい。驚いたことに、彼は蓄えがあまりないようで、やや生活に困窮しているようだ。それをある日聞いた上司は、自らのポケットマネーをはたき、金銭的な支援をしていたことを、最近、聞いた。これには悪田権三も驚いたが、彼を一人前のフロントマンに育てたいという上司の気持ちの現れだと考えると、この世の中も捨てたもんじゃねぇなぁ・・・・と、胸が熱くなった。浪花節の世界だ。

・ところが、それを不満に感じている人がいるようだ。悪田よりやや遅れて入社した、ある男性フロントマンがそれで、社会経験豊富な人物だ。穏健派で明朗な人物なのだが、独自の社会観を持っていて、自分の敷いた路線で物事が動いて行かないと、穏健派が転じてクレーマーのようになってしまう面白い人だ。とにかく、嫌いな人を徹底的に批判し、客であろうが「輩」呼ばわりし、同僚・先輩であっても「それはおかしい」と声を荒げて批判する。かみつく。不満があるのなら、悪田のようにブログでつぶやく程度にしておけばよいのに、徹底的に非難し、相手を叩きのめしてKO勝ちないと気が済まない。周りもそれを見て、最初はいじってネタにしていたが、最近は誰も近寄らなくなった。

・彼は客からよくクレームを貰う。どんなに腹が立っても、輩呼ばわりしても、本来、区分所有者は管理会社にとり大切な客なのだから「はい、わかりました、すぐにやります」と言って動いていれば平穏無事に終わることがほとんど。しかし、彼は二言目には「それは警察の仕事だ」とか「いや、それは住民が自ら行うべきで管理会社の仕事ではない」「うちの幹部がただの取り巻きだから社長に進言すべきことも伝わらない」などと正論を述べる。だから客から集中砲火を食らうことが多い。挙句、自分で対処できなくなり「上司を呼んできましょう」とお客様から提案され、呼ばれた上司が、彼のおしりを拭いてくれる。を繰り返す。そして、かわいい赤ちゃんのような笑みを浮かべ、股間サラサラの快適生活を謳歌している。実に羨ましい。

・先日、ある女性社員が退職することか決まった。それをいた彼は、彼女に正々堂々と「辞められる前に、お昼でもご一緒しましょう。今日、行きましょう」と打ち明けた。素晴らしい行動力。ナイスファイトである。ところが彼女は「すみません、今日、お弁当なんです」とお断りした。しかし彼はひるまない。続けて「では、お茶でも行きましょう、今日、行きましょう」と誘った。しかし彼女も「すみません、今日はお昼過ぎに上がるんです」と断る。しかし、それでも食い下がる。「近くのお店に美味しいコーヒーゼリーが売っているので私が買ってきます。是非、お昼にそれを一緒に食べましょう」と誘った。彼の勇敢なファイトに彼女も根負けした。彼の大勝利だ。そしてお昼に、主に女性社員がお弁当を広げてくつろいでいるブースで、他の女性社員がいるのもお構いなしに、彼女と自分の濃密な時間を堪能することが出来た。勝者にしか味わうことの出来ない甘い蜜の味だ。お昼休みの一時間、ノーマスクできっちりと彼女にかぶりつき、じっくりと味わうことが出来た。素晴らしいチャレンジ精神で彼は見事、金メダルを獲得したオリンピック選手のようだと悪田は勝者に心からのエールを送った。

・これがセクハラになるかどうかは、あくまでも受け手側の心境次第だ。彼は紛れもない金メダル選手だからたぶんセーフだ。彼女がどのような心境であったかは悪田には定かでないが、ほどなく辞めるから、よほどの後日談でもない限り、嫌いなコーヒーゼリーを強要されたとかの話にはならないと思う。

・悪田が今朝、6時前に出社すると、あるマンションで火災警報器が鳴動していたとの連絡を受けた。理事長からだった。停止ボタンを押したが復旧しないとのことだ。悪田は遠隔監視のシステム業者を通じて警備員の出動を依頼した。ほどなく現着した警備員とのやりとりの中で復旧しないことを確認し、自動火災警報器の点検業者を手配し、出向してもらう段取りを行い、程なく出勤予定の管理員とも連絡をとった。

・結局のところ、原因の究明には至らなかったが、何とか復旧を遂げることが出来た。再び、同様の不具合が発生した場合の対処方法をメモし、管理員にも引き継いだ。おかげで、早く出勤して、本来、やりたかった仕事は出来なかったが、今後の備えに対処出来るための方法を身にみにつけることが出来た。

・そうしていたところ、コーヒーゼリーが出勤した。彼は本来、夏休みらしいが、自分の仕事があり、サービス出勤したそうだ。出社するなり、不満の数々を述べている。上司のこと、後輩のこと。後輩は数少ないから、新人君のことに不満を漏らしていた。たぶん、悪田の存在も不満だろうが、悪田本人が緊急対応しているから、あえてケンカは売られなかった。

・「やることないなら便所掃除しろ」はここでコーヒーゼリーから発せられた言葉だ。新人の彼も、日々、少しずつ業務に慣れ、定時で引き上げる前に先輩方に「何かやることはありませんか」と聞くようになった。それはそれで成長なのだと悪田は思う。しかし、コーヒーゼリーにはそれが勘にさわるようだ。

・悪田もコーヒーゼリーとは1年以上のつきあいとなるが、彼が手持無沙汰で清掃を始めとした奉仕活動をしたという場面を目にしたことはない。ここで、先生の言葉が脳裏をよぎった。「自分に出来ないことを部下に求めるな」

・わが社のトイレには四文字熟語で「凡事徹底」という文字が掲げられている。どういう意味なのか、用を足しながらいつも考えるのだが、たぶん、それは強引な手を使ってでも好きな女を口説けとか、他人を奈落の底に蹴落としてでも売り上げを持ってこいとか、そういう浮世の習わしではないのだと思う。むしろ「ブラシで便器をこすると陰毛が排水管から流れていくよ」とか「茶色飛沫のついた便器もブラシで丁寧にこすると茶色が少しずつ剥がれ便器がピカピカになるよ」ということなのだと思う。凡事徹底は儒教の教えでもある。格下の者が年長者を敬い、教えを請いて行くことで、自ら向上して行くという半島で成熟された道理であり考え方だ。

・凡事として与えられた良いきっかけを大切にしていきたい。

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