・倉〇聡監督の名作ドラマ「〇の国から」の続編で、北海道オホーツク海沿いに面する「トド撃ち」と呼ばれる猟師が、流氷に乗ったまま行方不明となり、しばらくして獲物を大量に抱えて帰ってくるという場面があるが、それは絶対にあり得ないそうだ。
・かつて、神奈川県警刑事部に所属していた悪田の先輩がそう話していた。その先輩は、北海道常呂郡常呂町出身で、最後は某署の刑事課長をやられ、警部の階級で退職された。
・どうやら、いろいろと深い事情があったようだと聞くが、あえて野暮な詮索はしない。そんなことをいちいち気にしていたら、元警察官は全員「訳あり」になってしまうからだ。
・例えば、よくテレビに出演されている、警察OBで、現職時代には数々の輝かしい成績を残したと、怪しく経歴を吹聴する人物にしてもそうだ。悪田が聞き及んだある情報によれば、かの人物は、ある犯罪組織との抜き差しならぬ関係が問題視され、それが元で職場を去らざるを得なくなったとのことだ。あえてオブラートに包むが、その情報を提供してくれた人物の話が仮に真実だとするならば、かの人物はれっきとした犯罪者だ。
・かの人物と契約を交わすテレビ局にしても、ロクにその人物の素性も調べずに登用し、実は犯罪行為の発覚が元で職場を去らざるを得なくなったということを伏せているのは公共放送として、倫理上・道徳上の問題があると悪田は考える。悪田が聞いた情報が正しいかどうかを含め、是非、自身の退職との因果関係を聞いていただければ良いのではないかと考える。
・かの人物はよく、重要凶悪事件が発生するたびにコメンテーターとして出演し、被疑者像や犯罪の背景などを、自身の経験と重ねた分析をしている。
・悪田に言わせれば「高度な知識をもった悪人」は自分自身に降りかかる火の粉の払い落し方を知っている。悪田の会社にいるようなダメなフロントマンは、自身に危機が迫ると、エビのような逃げ方をしてその場からいなくなるので単純で分かりやすい。
・しかし「高度な悪」は、相手がどのくらいの心証をもって取調べに臨んでいるかを値踏みしているので、常に自分自身が取調べられる側に立った時を想定しながら悪いことを積み重ねる。この行いは犯罪が成立するかどうか、否認のままて立証されるほどの証拠を捜査側が入手できるのか。検察官は否認でも起訴してくれるのか。有罪認定してくれるほどの裁判官の心証形成が可能かなどなど。
・これらを総合的に考えた際「高度な悪」は、いきなり身柄事件として処理するだけの証拠を人証(供述)を得られていないと判断する。特に、背景に金銭がらみが存在する事件の場合、賄賂と職務、便宜との関連性は立証可能かといったことを分析し、知られていない情報は絶対に口にしない。聞かれたことさえもはぐらかしながら、火の粉を落とし続けられると、いつしか捜査側が諦めてしまう。
・そもそも、身内の犯罪をいくら一生懸命に捜査して立証したところで、誰も褒めてはくれない。見えない犯罪を立証するには、膨大な時間と労力を要するし、やればやるほど、明らかになった真実は世間の批判に晒される。それが特命事件というものだ。
・特に「エス」だとか「モニター」などと呼ばれる、捜査官の協力者がらみの事件は難解だ。贈収賄事件においては、公選法の特定寄付を含め、贈賄側と収賄側の利権が巧みに絡み合っている。しかも、この種の事件においては、贈と収それぞれに犯罪が成立するから、実行行為と認識とが綺麗に合致するということは、むしろ稀。高度な悪はそのあたりの逃げ方に巧みだ。最終的には「そういう嫌疑がかけられたことは、自分の不徳の致すところ、退職をもってケジメをつけさせてもらいます」と言ってうやむやになる。嫌疑のかかった本人が辞めると言っているから、警察組織としても体裁が整う。
・深読みをすれば、「かの人物」はテレビのコメンテーターでありながら、現職当時は、悪事の限りを重ねてきた犯罪者だから、日々発生する凶悪事件を自身の経験に重ね合わせ、おおよそ一般市民では予想だに出来ない切り口でコメントが出来る。すると、何も知らない視聴者は、かの人物の素性を知らないまま「有能な元刑事が卓越した分析能力で事件の真相を解明している」と判断し、興味深く関心を寄せる。そして視聴率が上がる。それで互いにウインウインの関係が築ける。
・悪田は、名前こそ、悪人という印象を持たれがちだが、前科前歴もなく、退職直前に監察に呼ばれることも、刑事部特別捜査隊の取調べを受けることもない。むしろ、同僚から似顔絵入りの色紙をいただくなどし、円満退職(勧奨退職制度を利用)させていただいた。それだけが誇りだ。
・決して有能な警察官ではなかったが、真面目に一生懸命に仕事に取り組んできた甲斐があり、マンション管理の世界で、現職当時に取得した資格が生かされ、日々、研さんを積んでいる。人は、節目に目標を設定し、そこに向かって努力をする。日々の仕事に誠実に向き合い、顧客の信頼に応え、逃げずに真面目にコツコツと取り組んでいることが一番だと改めて思い知らされる。
・いつものとおり、前置きが長く申し訳ない。本題に入る。
・弊社の工事担当に、いわゆる「休まず」「遅れず」「仕事せず」の初老の男性社員がいる。
・実務能力、経験値、社会経験、人脈すべての面において長けていて、社長からの信頼も厚い。人格者なのだが、仕事はしない。人一倍しない。たぶん、会社はそれを期待していないし、何があろうとも本人は決してマイペースを崩さない。むしろそれが、本人の価値観なのかもしれない、強い拘りがあるようだ。しかし、それはそれで立派だ。
・ある日の早朝、その人から、悪田に突然、北海道出身の先輩刑事の話が出た。
・「悪田くん、〇〇さんって知ってる?」まあ、知らない訳ではない。というより、実は良く知っている。有能なデカだった。素性すらも怪しい「かの人物」より努力家で、仕事熱心で努力家、競争試験で警部にまでなった人だ。人格的にも実直で立派な人だった。
・「仕事せず」の先輩社員いわく「飲み友達」なのだそうだ。悪田にとっては、お世話になった先輩であるが故に、余計な事は言わず、その話は終わった。
・しかし「仕事せず」の先輩は、警察官を退職後、先輩がお金で苦労していたことを悪田に教えてくれた。行きつけの店のママさんから聞いたらしい。先輩は、警察官を退職後、ある人の紹介で法律事務所の調査の仕事に就いたようだが、長くは務まらず辞めてしまったそうだ。お金がきつくなってきたのは、それからのことだそうだ。
・ある日、店に客として来た先輩に、その店のママさんは、昔、お世話になったせめてもの気持ちとして「寸志・激励」を差し上げたそうだ。
・たぶんそれは、憐憫の情と、ある種の手切金だと悪田は感じた。
・金がないなら飲みに行かなければいいと悪田は思う。少なくとも、悪田はそうしている。金がないのに飲みに行っていると、単なる見栄っ張りになってしまう。そこで、ほどこしを受けると、それは恩返しの名のもとの「たかり」と見られてしまう。
・おそらく店のママも、飲み友達だという仕事せずの先輩にしても、良好な関係を構築したかったのは、現職警察官としての先輩であり、警察を退職した後、すっかり落ちぶれてしまった先輩ではなかった筈だ。それでも昔のよしみで「寸志・激励」を包んでくれるのは、頑張って欲しいという、期待の現れであろう。
・人は変化の中で生きている。悪田も今後、マンション管理の世界で芽が出なければ、ただの落ちぶれた元警察官だ。だからこそ、必死で食らいつき、ここから這い上がろうと、日々、奮闘している。それが結局は自分のためになっている。そう考えれば、悪田は常に幸せ者だ。
・悪田であれば、受けたほどこしは倍返しして恩義に報いる。あるいは、期待を裏切りたくないと考えて、二度とその飲み屋には姿を見せないであろう。