最後の電話を取るな

・弊社「心の通う管理」の、ある若き幹部が、お気に入りのお客様がいる。見た目のインパクトもさることながら、超ガサツで、超繊細、超一本気なところがあり、超律儀なお客様でもある。いろいろと相反しているが、あの存在感は一度見たら忘れないらしく、実は、その上司もたった一度しか会ったことがないのに、深く記憶に刻まれているようだ。

・今期、その方が、マンションの理事役員に就任された。実はこの方、マンションの防火管理者を兼ねている。本来的には、負担を考慮し理事役員を外してあげるべきかも知れないが、ご本人が快諾してくれているので、厚意に甘えさせていただいている。

・これまでに何度か開催した理事会には、毎回、欠かさず出席していただいている。理解力は高いし、ものごとの判断基準も極めて常識的だ。ただ、ちょっとだけ難点もある。

・お客様の特性に関することなので、深くは触れないが、例えば「マスク」をしてくれない。お願いしても聞いてくれない。

・拘りの強い方で、集会ではいつも「消防訓練はいったい、いつやるんですか?」と質問をする。本来、管理会社としてやらなければならないことは理解しているが、実はそれを求められることはあまりない。

・住民の関心が極めて薄いからだ。ただ、防火管理者として自身に与えられた責任を果たしたいという素朴な思いがあるようで、悪田は、その必要性を鑑み、今回、やることを提案した。そして日程とメニューを取決め、所轄消防署にお願いして参加を促した。

・それを取り決めた集会の後、別の出席理事役員から悪田に「あの人、いつもマスクしてないですよね。ちゃんとするよう言って下さいよ」とのご指摘をいただいた。それで、マスク着用を個別にお願いした。

・すると、露骨に嫌な表情を浮かべた。そして「しなきゃダメですか。言われるまでしないつもりでいたのですが、やはりしないとダメですか。(大きなため息)分かりました。仕方ない」と理解を示してくれた。

・消防訓練の日が訪れた。

・事前に防災機器点検会社の担当者にもお越しいただき、どういう方法で実施するかを打ち合わせた。正直、マンションごとに設置されている自動火災警報器はメーカーごとに仕様が千差万別で、どこを押して良いのか、どこを押してはいけないのか。悪田には皆目、見当がつかなかった。しかも、消防署は機器には触れないというので、悪田も不安を感じていたが、点検会社のサービスマンが来てくれたおかげで助かった。

・「悪田さんですか」と白いライトバンに乗って登場した消防署員が声をかけてくれた。「あれ、消防用車両は赤色が定番であったのでは」悪田は、自分の認識の甘さに気づかされた。白色の消防用車両があることを初めて知った。

・訓練内容は、火災警報機の鳴動訓練に合わせての避難と水消火器を使った消火訓練だ。一か月以上前からの全戸投函と物件への掲示で内容は周知されている筈なのに参加者が少ない。消防さんにまで、お忙しい中、来ていただいているのに、1~2名だったらどうしようと、悪田は気を揉んだ。しかも、防火管理者の姿はそこにない。

・「言い出しっぺが不参加は、まさかないだろう」と考えつつも訓練開始、何とか4名の方が参加してくれた。避難訓練に続いて、水消火器の消火訓練、その時、防火管理者の姿を発見した。しかも遠く離れた位置にひっそりと隠れている。悪田はあえてオーバーアクションでお声掛けをして、水消火器での消火訓練に加わってもらった。

・無表情なまま、いやいやながら来たかのようにも窺える、あるいはシャイな性格なのか。とにかくそのお顔にはマスクがない。忘れたのであろうか。いや、違う。たぶん、離れた位置にひっそりといたのは、マスクをしていないことを、ご自身が理解しているからだと思う。

・それは、ポリシーなのだろう。もしかしたら、使い捨てのマスクに人生の悲哀を重ねているのかも知れない。そんな想像を巡らせつつ、ここは悪田もあえて野暮なことを言わず黙認することにした。もちろん、事前に配布したチラシにも「参加される方は、必ずマスクの着用をお願いします」と書いてあるのだから、そのうえでノーマスクで現れたことを、あえて静観することとした。

・消防署員からは、火災の特性として、マンションの場合、耐火構造物なので横列に延焼することは少なく、上階への延焼に留意が必要。危険を感じた際は、迷わず避難、慌てず走らず安全に。エレベーターの使用は禁止であるとの注意点を説明していただいた。

・消火器使用の際は、①周囲への告知、②ピンを抜く、③3~5メートルの距離から噴射、④レバーは下を握っても平気、上を握ると噴射される、⑤体力に自信のない人は消火器を置いたままでの操作でも構わない。といったご注意をいただいた。

・訓練だからと思えば簡単だが、本番で想定したとおりの行動が取れないことが多いのが実態だ。

・悪田は、県警通信指令課補佐として勤務していた当時、部下が取った最後の電話を、後で何度も聞き返し、事案を検証したことがある。

・思い返しても、いまだに悔やみ切れない事例だ。天ぷら油からの出火だった。通報者は独居の高齢女性で、週末にたまたま障碍のある孫が遊びに来たために、孫が好きな揚げ物を作ってやろうと考えたようだ。ところが孫の用事でちょっと目を離した隙に火にかけた天ぷら油が過熱し、鍋から出火した。

・慌てて消火しようと試みたが火の回りか早い。やむなく家の電話から110番通報した。オペレーターが必要事項を聞き取る。その間にも瞬く間に火が回る。ほどなく電話が途切れ、その後、呼び返すも繋がらない。

・「とにかく逃げて下さい」部下が、これだけを伝えられなかったことが、今でも悔やまれる。

・悪田は、その後、部下に何度も何度も「最後の電話を取るな」と指導した。

・110番受理の本質は、通報者の命を守ること。だから、この場面では「逃げて下さい」の一言を伝え避難してもらうこと、それだけで十分だと部下を指導した。

・余計なものはいらない。きれいごとも要らない。態度が悪いと叱られても構わない。「とにかく逃げろ」それだけ伝えよ、命が助かればそれだけで充分だ。金も家も思い出も要らない。とにかく命だけを守ってやることが警察の役割だ。人生最後の電話を取るのは心苦しい。全力を尽くしたのに、良心の呵責に苛まれる。

・マンションの消防訓練でも、本当はそれを伝えたかったが、悪田の素性がバレてしまうとかえって面倒をかけてしまうから、黙って水消火器を片付け、次の集会の準備に入った。

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