ビジネスライクで仕事が好きになる

・年甲斐もなく朝帰りすると、やたら世間の目が気になるもの。別に飲み歩いて帰ってきた訳でもないのに、午前7時に家に帰ると、駅に向かう導線と真逆の動きとなるので、不思議と罪悪感がある。

・とりあえず、シャワーを浴びて2時間、目をつぶった。どうしても外せない用事があり、今日はそれを済ませないと自分自身が困ってしまう。油断していると会社携帯が遠慮なく鳴るから、サイレントモードに設定した。

・ふと忘れかけていたことを思い出した。昨日、対応したマンション駐車場内の事故を管理員に知らしめていなかった。そこでショートメッセージを送っておいた。事故の概要と顛末、その他の情報。最低限、知らしめておかなければならない内容をうっかり失念してしまうと、管理員さんがフロントマンに不信感を持つこともある。

・こういう事態は極力、避けたいので、悪田も必要な配慮を考えている。何せ、うちの社長でさえ気を遣っている人生の大先輩方に、儒教の教えに背く不義理は出来ない。

・一通りの用事が済むまで、午前中いっぱいを要してしまった。急ぎ自宅に戻り、たまった議事録を2本片付けていた。早く仕上げたいと考えていたが10日近く先延ばしになってしまった。

・あるマンションの管理員から電話が鳴った。

・電話に出ると、マンションで漏水事案が発生し、居住者さんが管理員室を訪れたらしい。実は、以前、悪田がちょっとだけ電話でやりとりしたことのある区分所有者さんだ。うちの管理ではちよっと珍しい「アンチ」なお客様である。いろいろと訳ありなことは、前々から聞いて知っていた。これまでの経緯をつなぎ合わせるとだいたいのことが理解できる。

・一番の原因は、悪田の前任者のようだ。お客様は悪田の前任者を加害行為者と決めつけ、それが故に弊社が管理する組合に関する一切の運営には協力しないそうだ。実際に以前、ご本人様からそう言われた。

・漏水事案と「アンチ心の通う管理会社」とは、まったく無関係なように思える。しかし、「アンチ」のご本人様にとっては「嫌いなお前たちの世話になんかなるものか」と言うお気持ちがあるのだと思う。

・だったら、意地を通すという選択肢もあるが、そこはそうではないらしい。

・お客様は、悪田の前任者のことを「一方の当事者に寄った公平性のない社員」「事実無根な内容を組合内に掲示・投函して私の名誉を棄損した犯罪者」「会社に謝罪を求めたのに黙殺されまったく客の意向を汲んでくれない理不尽な管理会社」と決めつけ憎んでいるようだ。実際にそう言われた。

・しかし、悪田に言わせるとお客様のその見方は微妙に違っている。

・前任者の「バックギア氏」は、お客様には最高のパフォーマンスで接しようとするが、身内である同僚、部下には超理不尽な接し方だ。自分中心にしか物事を見ないし、自分の仕事は人に手伝わせるが、人の仕事を手伝うことはしない。本来、その人が主体的にやらなければならない業務を抱えているが「忙しい」を理由に、人に任せたまま、知らんぷりを決め込んでいる。現に新人の悪田にも散々、理不尽。不条理な対応をした。

・何も知らない新人の悪田に対し「わざと何も教えないで困らせる」というイジメをした。お客様か言う、一方、当事者に寄った対応であれば、寄られた当事者にとってフロントマンは使い勝手の良い存在となるが、眼中にもない新人のフロントマンに対しては、わざと放置すること、聞かれても教えないことで困らせてイジメを楽しんでいる。

・大事なお客様からの問い合わせだと説明しても「オレは関係ない」は当たり前だったし、分からないから質問したのに、その質問に答えてくれたことなどなかった。周りからのフォローもなかった。当時、悪田は、嫌われているんだろうなぁと感じた。しかし、他に行くところもないから、我慢してこの仕事を続けた。

・実際に、バックギア氏は、めんどくさいことを言ってくる客や声のトーンが大きい客は特別扱いしてへつらう。だが、本当に困っている人には後ろ足で砂をかけるようなことをする人物だから、確かな漏水被害のお客様のように弊社に不信感を感じたことも背景として実際にあったのだろうと感じた。

・ただ悪田も散々、バックギア氏から、いろいろと食らったおかげで、この世界の厳しさを学んだ。イジメと捉えるかどうかは感じ方しだいだが、こういう経験をするとお客様が不信感を感じていることが長年解決されない理由も理解出来る。確かにそういう社員を野放しにしていることを考えると、うちは最悪な会社なのかも知れない。

・マンションの組合運営の大前提は「寄らば大樹の陰」的な法則が成り立つ。主要な取決め事はだいたい総会決議で決まる。総会決議は区分所有者と議決権数である。ただ、普通決議の場合、半数以上の組合員が出席し、過半数の決議で可決承認となるので、例えば100人のマンションだとすれば、最低限、26人が足並みを揃えて同意すれば議案が成立してしまうことになる。おかしなように思われるかも知れないが、皆、無関心なマンションにおいてはこういう恣意的に決議も可能だ。

・いくら、正論で臨む一人が総会に出て正しいことを言おうとも、その他大勢が、別の方向性に寄ってしまって結束すれば、議案はそちらに流れる。いくら一人が総会で反対しようとも、反対票などとるに足らない。

・悪田の住むマンションでも、以前、大規模修繕工事の進め方にそういう無茶な決議を無理やり押し通した。悪田は総会の場で反対したが、とるに足らない反対票だった。

・心の通う管理に不満のあるお客様は、悪田が「とりあえず、弊社にご不満はあるかも知れませんが、ここは緊急事態だから、一刻も早く修繕出来るようご協力をお願いします」と頼んだところ「ビジネスライクですね」と返答された。

・「ビジネスライク?ああ、そういうことです」と適当に返事した。意味は分からなかったが「ビジネスマナー」程度のものだと理解した。

・後で辞書を引いたら「感情を挟まずものごとを淡々と処理するさま」を意味することが分かった。

・悪田としては、このお客様に特別な謝罪の気持ちもないし、バックギア氏に対しても特別な憎しみもない。いちいち人を恨んだり憎んだりしていたら、この商売は務まらない。

・後で、前日の事故を知らしめた管理員から、メッセージの返信が入っていた。「そんなことは知っています」の一言だった。何もそんな言い方をせずともだが、たぶん虫の居所が悪かったのだろう。

 

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