腐ったご飯とカビの生えたパン

・悪田権三が、現職警察官当時、同じ署員で警務課管理係の警部補(先輩)が、同署警務課住民相談係として配置換えとなり、同じ当直班となった。

・警察署の事件当直班は、大規模署で8日に一回、中・小規模署で6日に一回のスパンで、チームを組んで日々発生する現象事案の事件処理に当たる。

・現場の警察官から身柄事件の引致を受け、あるいは発生ものの事件や同行されてきた被疑者の処遇といった擬律判断、署長や主管課幹部への報告、はたまた、警察本部主管課への速報・指揮伺い、報道機関への広報など、ひとたび事件を認知すると「貫徹(徹夜を貫徹するの略)」も日常茶飯事である。

・変死があれば高度に腐敗していようが、バラバラに粉砕されていようが検視に立会う、もちろん関係者から事情を聴く。泥棒の現場があれば臨場して見分する。火災があれば泥だらけになって灰をかく、などなど、数え上げれば枚挙にいとまがない。

・そもそも限られた最小人員で事件対応に当たっているから、その当直班ごとに能力に差が出ないよう、交通課を含む事件当直の班員構成については、署長をはじめとした幹部も常に神経を尖らせている。

・配置換えとなった警部補は、悪田と同じ警部補の階級にあったが、実務経験は、あちらがはるかに先輩であった。当時、悪田は年齢31歳だったと記憶している。刑事課知能犯係に所属する警部補として、生意気盛り真っただ中の、怖いもの知らずだったが、若手の実働メンバーだった。よく、いろんな人に尖って噛みつき、困らせてきたことを、この場を借りてお詫びする。

・悪田は、新たに住民相談係に配置換えとなった先輩に祝意を伝えた。その際の返答が、表題のとおりである。留置場勤務から住民相談係へ配置換えが行われ、その業務内容の比較の中で、先輩は比喩的手法を用い「腐ったご飯とカビの生えたパンのどちらを食べるかを問われているようなもの」と不満を漏らした。

・今日の実体験に話を変える。

・マンション管理会社のフロントマンが絶対に立ち会わなければならない工事が幾つかある。例えば著しい騒音や振動・悪臭、交通整理が必要、業者任せにするにはやや不安、手抜きが不安な業者へのアピール等々・・・

・今日の案件はまさにそうであった。騒音・振動・埃が出る。事前に周知させたとはいえ、あまりの騒音にマンション内のみならず、周囲のマンション居住者が驚いて部屋を飛び出し、現場を覗き見る。もちろん、周辺のマンション住民には事前に案内を投函し、工事の必要性をご理解いただき、事前に周知を図っている。

・多くは怪訝な顔をして、怒りの目線で立会っている悪田にシグナルを送ってくるので、そこは悪田の出番である。にこやかに、平身低頭、大きな声でご挨拶。工事の騒音以上に大きな声で、真夏の炎天下の中、汗だくになって立会いを行っていれば、だいたいの人が仕方ないと容認してくれるものである。

・この、ちょっとした配慮を欠き、管理会社が立会わないでいると、得てして「なんで管理会社が立会っていない」「そんな工事は聞いていない」「今すぐやめさせろ」みたいな苦情に発展する。よほど好戦的な性格、職業的なクレーマー、当たり屋を繰り返すようなストリートファイターでも出ない限り、管理会社が近隣住民に配慮していることを体現すれば、そんなにトラブルになることはない。

・人は、ひとたび怒りの感情を表すと、なかなか、引っ込みがつかなくなりがち。上げた拳の降り下ろし先がなくなると、モノや第三者に当たるしかなくなるから厄介だ。だからこそ、そうならないよう、管理会社が立会いを行い、現場作業員と近隣住民との間を取り持ち、それこそコンシェルジュとなって細やかな対応をする。それが立会いの要諦だ。

・若干、話を戻す。

・炎天下の中、悪田が立会いをしていると、管理員から「ちょっといいですか」と声を掛けられた。普段から真面目で一生懸命な管理員だと悪田は信じていたから、何かよほどの「やんごとなき」深い事情があったのだろうと推察し、管理員が案内する場所について行った。

・すると管理員から「報告と相談が三つあります」と寄せられた。

ひとつ「先日のゴミ収集日に出してはイケないルールの段ボールと古着が出され、市が回収しませんでした。これを見て下さい」と言って腰の高さに積まれた段ボールとビニール紐で縛られた幼児の古着を見せてきた。

ふたつ目「町内会でのみ使用が認められている駐車スペースの駐車章が文字焼けして見づらくなっていますので作り直して下さい」と言われ、宿題を与えてくれた。

みっつ目「〇〇号室の〇〇さんから廊下の照明器具にクモの巣が張っていて不潔だとのクレームがあり、今日からしばらく夜間の点灯を切断して様子を見ます」との報告を受けた。

・報告は以上三点であった。正直、悪田は辟易して、若干「イラッ」とした。悪田が何故、時間を割いて重要な立会いのやりに来たことを、この人は理解していないのかと感じた。

・そもそも、物件を担当する管理員が、自分自身の矜持として、自らがやらなければならないことを、この人は、はき違えているのでないか。とさえ感じた。

・例えば、ひとつ目の案件に関しては「犯人は分かっています」とのことで、段ボールに貼られた宛先の印字を見せてくれた。ふたつめの案件は、携帯電話のショートメッセージのやりとりで済むこと。わざわざ騒音工事の立会いを中断させてまで、今すぐに作らなければならない書類でもあるのか。ない。そもそも、それが悪田だったら、フロントマンに頼む前に自分で何とかする。

・困ったのはみっつ目、お客様は清掃が行き届いていないことを管理員に不満として伝えたかったのに、肝心の本人はそれを全く認識していない。

・本来、その要件で来たつもりはなかったが、お客さんからクレームを受けてしまたことを悩んでいる管理員は、自分の清掃が行き届いていないという現実を受け入れられないようで、不可解な現象に首を傾げているというか、むしろ憮然としている。

・人生の大先輩に向かってものごとを意見する時は、悪田も特に気を遣う。それが人情というものだ。一緒に30分ほど館内を歩き、意識してクモの巣を取り払う作業をしないと、特に嫌悪感のある女性にとって気になることをご自身の目で確認していただいた。

・ホントは、こんなことくらいフロントマンがやればあっという間だ。だけどそれでは「何のために管理員がいる」と言い出したのは悪田の上司で、帰社後、悪田がぼやいていると、上司が畳みかけてそう言った。

・しかし、管理員の中には「オレは家族から脚立に乗って電球交換をするなと言われている」と称して「電球交換の際はフロントを呼ぶ」などと豪語する、特権階級者もいる。

・別な言い方をすれば「電球交換は自分の仕事かも知れないが、俺はやりたくないからフロントがやれ」と言っているようにも聞こえる。さすがの悪田も、かの徳川家康公が残した「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」と遺訓を思い出した。そして、先程の管理員の理不尽な言葉を飲み込むことにした。

・警察の各部署においては、特に留置場も住民相談も実に主要で立派な業務だ。警察署留置場は監獄法における「代用監獄」として、刑の執行場所を兼ねており、被留置人にも人権があることを常に意識せねばならず、現行制度のもと、無くてはならない重要な施設だ。

・また、住民相談業務も警察の一連の非違事案をきっかけに立ち上げられた主要なセクションだ。

・警察刷新会議の緊急提言において、これをきっかけに警察署協議会とともに設置された、まさに主要業務であり、それぞれが「警務」という、警察部門の中でも精鋭中の精鋭しか配置地されないエリート部隊の要職である。

・特に管理部門は、専務部門の登竜門と言われていて、刑事になりたい時は、まず管理の経験をしなさいとすら言われている。

・「職業に貴賤なし」の格言のとおり、だから、かつての悪田の先輩は、当時、単に自分を謙遜し、意識的に自分を卑下した言葉を発したかっただけかも知れない。

・また、悪田は、後期高齢者の管理員さんに無理をお願いすべきでないと考える。

・長い人生経験を踏まえて体得した人格や能力を兼ね備えた人生の先輩から、我々世代が学び取るべき項目は実に多いから、こあたりの指導は素直に受け止めたい。

・だからこそ「心の通う管理」の神髄を正しく理論づけることが、極めて重要だと悪田は考える。

・と、同時に、それが単なる「理不尽の商材」として受任しなければならないものなら、この会社の未来は枯れていくばかりではないかとの憂慮がある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA