・某県警の幹部に、この「精一杯」という言葉が大好きな方がいて、こと勝負ごととなると、手段を選ばず一人勝ちを狙う抜け目のない人だった。世間は、とかく競争社会だから、勝つ人がいれば、当然に勝てない人もいる。努力の結果が勝ちに結びつけば良いが、必ずしもそうとはならない。勝つための秘訣は勝った人から聞くべきだ。勝ったタイミングで上機嫌でいる間に、勝者をおだてて勝因をインタビューすると、すっかり気を良くして、そのコツを自慢げに教えてくれたりすることがある。
・人の自慢話を聞かされるのは苦痛だが、それをあえて押し殺し、勝者をもてはやし、褒めちぎり「いょっ、あんたが大将」「さすが、社長、日本一」「いゃあ流石です、私は絶対にやると思ってましたよ」など、満面の笑顔でヨイショと重量あげで、ぐっと持ち上げれば、悪い気持ちになる人は少ない。
・「精一杯」の人もそうであった。厳密に言うと、精一杯になってアップアップなのは、その人の部下である。本人は櫓の上に立って「精一杯、精一杯、おら、気合入れて行け」と体育会系のノリで音頭をとるだけ。人の尻を叩くだけだから楽勝だが、叩かれる方はたまったもんじゃない。それでも、一体感という団結力を形成する手法としては古来から用いられてきた。ただ、今は昔と違って、あまり部下の尻を叩いて叱咤激励していると「パワハラ」のレッテルを貼られてしまうから注意が必要だ。
・職場のある上司が体調不良を訴えた。仔細は聞かされていないが、周囲の口振りから察するに、いわゆる「心の風邪」をひいてしまったように見受けられる。同じ建屋で働いているから、たぶん「加重労働」が原因だと思う。というか間違いない。証拠がある。
・悪田も社会経験が少ないわけではないから、いろいろな要因が重なって「心の風邪」をひいた人たちをこの目で見てきた。現代社会はストレスとの戦い。ましてやマンション管理会社のフロントマンは離職率が高いと言われるとおり、理不尽とのはざまにある超高ストレスな業務だ。悪田も生身の人間である以上、いつ、自分が同様の体調不良を発症し、職場に来られなくなってしまうとも限らない。
・だからこそ、自分なりに常に体調管理には努めているし、ストレスを発散させるための合法的アイテムも持っている。それでも、いつ何時、そういう場面が訪れるか分からないから、悪田は、もしも、自分がそうなった時のための保険をかけている。
・家族は、一家の大黒柱に万が一のことがあると、働き手を失って路頭に迷ってしまうから、保険に入ることを検討する。縁起でもないことだが、縁起でもない将来を想定出来ないでいると、万が一の厄災に襲われた時に思考停止してしまう。思考停止しても人間は腹が減るし、自分が食うため、あるいは家族を食わせるためには先立つモノが必要だ。保険とはそういうものだから絶対に必要だ。
・ちなみに、悪田がここで言う「保険」とは、生命保険のことではない。自分を守ってくれるアイテムを指している。今日、悪田が一番に驚いたのは、あるフロントマンが体調を崩したという話になった時、上司、同僚の誰一人、過酷な労働を強いた会社の管理体制を批判しなかった。なぜか。従業員それぞれが、自分のことで精いっぱいだからだ。人のことに構っている余裕などないからだ。
・では、どのくらいの過酷な労働を強いられていたのか。実際、過労死レベルだと思われる。相当にしんどい日々を、少なくとも半年以上続けてきたことは間違いない。それは悪田も同じだ。フロントマンが壊れてしまうと、そこから先は客の前に出すことは出来ないから、周囲がフォローに当たらなければならない。さっそく、別の担当者を雇い入れるため、募集をかけるとのことであった。しかし、一人の穴を埋めるための作業は過酷なまでに重労働だ。
・従業員を雇い入れたところで、すぐさま一人前になれる訳ではなく、独り立ちさせられるようになるためには、長い年月がかかる。そんな無駄な労力を費やすくらいなら、現有の社員をもっと手厚くフォローすれば良いものだと思うが、このあたりの危機意識に、やや乏しいところが、弊社の難点だ。
・とにもかくにも、労務管理の重要性を再認識し、改善のための手立てを講じて行かないと、この会社に未来はないと感じた。
・帰りがけに、悪田は上司に呼び止められた。何事かと思ったら「くれぐれも体調管理に努めてもらいたい、許容量を超えそうなら、遠慮なく言って欲しい」とのことだった。悪田は丁重にお礼を述べて会社を後にした。
・悪田には、労務の対価として給料をいただいているという認識はない。この仕事を極めるための勉強をさせていただいているに過ぎないと考えているからだ。嫌ならいつでも辞めることは出来る。この仕事が嫌になって辞めたところで、病気を発症して辞めたところで、首のすげ替えは簡単だ。それが嫌なら、首のすげ替えが出来ないような仕事をすればいいと悪田は考える。破格の待遇を用意するから、何としても辞めないで欲しいと言われるほどの実力者になればいい。
・悪田は約一年前に、今回、体調を崩した人から「お前のような考えではフロントマンは絶対に勤まらない」と苦言を呈していただいた。当時、悪田が手探りの中、実務を学ぶべく、必死に食らいつこうとしていた頃、ある管理員との電話でのやり取りを聞いていたこの人から苦言をいただいた。その苦言は当時の悪田にとってキツイ一発だったが、有難みのある教訓ととして、生かされている。
・精一杯になっても決して良いことはない。だからこそ、そこそこにやっていればいい。二流三流役者はそれでいい。
・しかし、一流とか、エースとか、ほんの少しの職人を目指すのなら、そこそこという言葉は封印すべきだ。一生懸命にやって自分を壊すか、死ぬ気でやって生き残るかの選択となる。
・悪田は曲がりなりにも、㈱億山という自分の会社という看板を背負っているので、中途半端な目的意識はない。それこそ、死ぬ気で取り組まないと、業務の要諦は誰も教えてくれない。
・自分の経験を重ね、少しずつ学んで行くには遅すぎる。そこそこに適当にやっていたのでは、プロであっても、一生、三軍選手だ。
・ここ半年間の拘束時間を、悪田のデータで、ざっくり俯瞰してみたところ、悪田は、その方の倍以上の拘束時間だった。また、最近のデータを見ると、その方の拘束時間は、ほぼ定時に近い数値だった。だんだんとオーバーワークが積み重なり、とうとうパンクしてしまい、そうなったのであろう。
・あるフロントマンが一言、こう口にした。「人が壊れる時ってこんな感じだよね」と。皆、明日は我が身だから、そういう不安との戦いの中で生きている。そこに綺麗ごとなど必要ない。みんな、必死なんだと思う。
・悪田は明日、お休みをいただくが、担当物件を二つ巡回予定だ。もちろん、その前に軽く早起きして、軽く走って汗を流す。
・自分を壊さないため、困っている人を救うために、レスキュー隊は常に強靭でなくてはならない。それでも、まだまだ精一杯ではないし、一方で自分の経験値で積み重ねた業務の要諦は、相手が部下であれ、後輩であれ、先輩であれ、上司であれ、簡単には教えるつもりはない。